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猫のゲーム日記。新しい遊び方を研究しています。皆さんよろしくお願いします
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天地人wiki NHK大河ドラマを楽しむ方法を聞いた 涙を買ってください

天地人』(てんちじん)は、2009年1月4日から同年11月22日まで放送予定の、第48作のNHK大河ドラマである。全47話(予定)。原作・火坂雅志、脚本・小松江里子、音楽・大島ミチル、主演・妻夫木聡。

原作は、2006年(平成18年)に発表された火坂雅志(新潟市出身)の同名小説。主人公は上杉景勝に仕えた上杉家の家老・直江兼続。脚本は、NHKでは2007年(平成19年)前期の朝の連続テレビ小説『どんど晴れ』を手がけた小松江里子。火坂原作の大河ドラマ化は初めて。

主に舞台となるのは、戦国時代。この時代を舞台とした作品は、近年でも2007年の『風林火山』のように、大河ドラマのみに限定しても過去に多数制作されているが、本作は映像作品史上では初めて、兼続が単独の主人公として取り上げられる作品である。同時に、大河ドラマ史上初めて関ヶ原の戦いに敗れた側の武将が主人公となる作品でもある。

ひたすら利のみを求める戦国時代に、「愛」を重んじ、「義」を貫き通した武将・直江兼続。主君・上杉景勝をはじめ、師と仰ぐ上杉謙信や友人・真田幸村との深い係わりを主軸に、同時代に生きた戦国武将や妻・お船をはじめとする女性たちとの人間関係、利を求める社会において発生する格差など現代社会に通じる問題、といった様々なテーマを盛り込みながら、兼続の生涯が描かれる。

主人公兼続を演じる妻夫木聡は、大河ドラマへの出演自体が初めて。兼続が終生仕えることになる上杉景勝は、2001年(平成13年)の『北条時宗』以来の大河ドラマ出演となる北村一輝が演じる。他に、兼続より年上の正室・お船には常盤貴子、景勝の養父であり、兼続に大きな影響を与えることになる謙信には阿部寛、上杉家にとって最大の敵となる徳川家康には松方弘樹がそれぞれ演じる。兼続とは生涯の親友同士である石田三成役の小栗旬、真田幸村役の城田優をはじめ、主要キャストの大半が平均年齢20 - 30代の俳優で占められていることも特徴的である。

大型ドラマ『坂の上の雲』第1部を大河ドラマの枠を拡大する形で放送するため、11月22日最終回・全47回放送と、通年で放送される大河ドラマとしては例年よりも短縮放送となる

直江兼続(なおえ かねつぐ)
(樋口与六 → 樋口兼続 → 直江兼続)
演:妻夫木聡(少年時代:加藤清史郎 少年時代吹替:大平洸大)
上田衆・樋口惣右衛門の長男で、幼名は与六。五歳で景勝の小姓となった。口癖は「これはしたり」。実直な性格で景勝に忠誠を尽くす一方、はやり過ぎて失敗する事も多い。何かあるとすぐに泣き出す一面もあったが、母の死をきっかけに二度と泣かないことを誓った(但し、その後もたびたび泣く描写が見られる)。また他人がよく思わない事などにも興味を持つなど好奇心が旺盛。上杉謙信には唯一の弟子と認められ、仙桃院には北斗の七星の如き家臣となるように説かれ、薫陶を受ける。
謙信の死後、御館の乱では桑取衆や武田家を味方に付けさせるなどの戦功を上げ、次第に景勝の第一の側近として頭角を現し、御館の乱終結後、吉江宗信や直江信綱の推薦で上杉家の家老に昇格するが周囲の反感をいささか気にしている。直江信綱の死で景勝から直江家を継ぐよう命じられ直江家を継承し上杉筆頭家老として采配を振るうことになる。

謙信時代
通説では、兼続は永禄3年(1560年)に樋口兼豊の長男として、越後の坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)に生まれた。永禄7年(1564年)に上田長尾家当主の長尾政景が死去すると、上杉輝虎(謙信)の養子となった上杉景勝(当時の名乗りは長尾顕景)に従って春日山城に入り、そのまま景勝の小姓・近習として近侍したとされる。しかしながら、これを立証する信憑性のある史料は極めて少ない。
直江家相続
上杉謙信急死後の天正6年(1578年)の御館の乱では、父・兼豊と共に景勝方に付いた。 天正8年(1580年)8月から、景勝への取次役など側近としての活動が資料で確認できる。8月15日(9月23日)には景勝印判状の奏者をつとめている。 天正9年(1581年)に、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起きる。兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。以後、上杉家は兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る。
豊臣政権時代
天正11年(1583年)には山城守を称する。天正12年(1584年)末から秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次の殆どを担うようになる。秀治の死後は単独執政を行ない、これは兼続死去まで続くことになった。当時の上杉家臣たちは景勝を「御屋形」、兼続を「旦那」と敬称し、二頭政治に近いものであった。天正14年6月22日(1586年8月7日)、上洛の最中に主君・景勝は従四位下・左近衛権少将に昇叙転任するが、兼続も従五位下に叙せられる。

新発田重家の乱では重要な戦略地・新潟を巡り激しい攻防が続いていたが、天正11年(1583年)、当時新潟は湿地帯だった為に豪雨により上杉勢が敗北する。兼続はこの対策として、川筋が定まらず本流と支流が網の目のように流れていた当時の信濃川に支流の中ノ口川を開削する(味方村誌)など、現在の新潟平野の基礎を造り、着々と新発田勢を追い詰め、天正13年11月20日(1586年1月9日)、新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐した。これにより新潟港の水利権を失った新発田重家は急速に弱体化した。天正15年10月13日(1587年11月13日)、兼続は藤田信吉らと共に新発田城の支城の五十公野城を陥落させ、まもなく新発田城も落城し、乱は収束した。

天正16年8月17日(1588年10月7日)には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の姓を授けられ、豊臣兼続として改めて山城守の口宣案を賜る。天正17年(1589年)の佐渡征伐に景勝と共に従軍。その功により、平定後に佐渡の支配を命じられた。天正18年(1590年)の小田原征伐でも景勝に従い、松山城を守備していた城代の山田直安以下金子家基・難波田憲次・若林氏らを降し、先兵として八王子城を攻略するなど関東諸城を攻略。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においても景勝と共に参陣して武功を挙げた。上杉領となった庄内地方においても大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切った。

安定した豊臣政権の中で、兼続は戦乱で疲弊した越後を立て直そうと奔走する。兼続は農民に新しい田畑の開墾を奨励した。越後の平野部は兼続の時代に新田開発が進み、現在に至る米所の礎となった。さらには産業を育成し、商業の発展に努めた。その元となったのが青苧(あおそ)と呼ばれる衣料用繊維で、越後に自生していたカラムシという植物から取れる青苧は、木綿が普及していなかった当時、衣服の材料として貴重としたものであった。この青苧を増産させ、織り上げた布を京で売り捌き、莫大な利益を上げた。兼続の施策は越後に謙信の時代に劣らぬ繁栄をもたらした。

天正23年(1595年)1月、景勝が秀吉より越後・佐渡の金山支配を任せられると、兼続はその代官となる。

慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封された際、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられている。この国替えで、上杉領は最上領によって会津・置賜地方と庄内地方に分断された。兼続は、この分断された領国の連絡路として、朝日軍道と呼ばれる連絡路を整備した。朝日連峰の尾根筋を縦走する険しい山道で、関ヶ原の合戦後はほぼ廃道となった。

関ヶ原
慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭するようになる。石田三成と懇意であった兼続は、家康との対立を決意する。徳川家との融和を主張した上杉家重臣・藤田信吉を追放し、家康の度重なる上洛要求も拒んで、やがて関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こした。

このときに家康を激怒させ、会津遠征を決意させるきっかけとなった直江状の文面は後世の偽作、改ざんの可能性が指摘されているものの、家康の上杉征伐を諌止した豊臣奉行衆の書状には「今度、直江所行、相届かざる儀、ご立腹ご尤もに存じ候」「田舎者に御座候間、不調法故」などとあることから、兼続の書状が存在し、それに家康が激怒したことは事実のようである。

景勝・兼続主従は白河で徳川勢を迎撃する戦略を練っていたが、三成挙兵のため、家康率いる東軍の主力は上杉攻めを中止。兼続は東軍の最上義光の領地である山形に総大将として3万人の精鋭を率いて侵攻した。最上義光と上杉家は、庄内地方を巡って激しく争った経緯もあり、関係は悪かった。さらに、上杉家から見ると、上杉領は最上領により分断されており、最上家から見ると上杉領に囲まれていた。当初、東北の東軍諸勢力は最上領に集結し、上杉領に圧力を加えていたが、家康が引き返すと諸大名も自領に兵を引き、最上領の東軍兵力は激減した。義光は危機感を覚え、上杉家へ和議の使者を送りながらも、東軍諸侯に呼びかけ、先制攻撃を図ろうとしていた。義光の動きを察知した兼続は、機先を制した。義光は戦力集中の為、一部の支城の放棄を命じたが畑谷城を守る江口五兵衛などはこの命令を拒否して籠城、上杉軍は激しい抵抗を排除して攻略した。その後、同じく志村光安が守る長谷堂城と、里見民部が守る上山城を攻める。500名が守備する上山城攻めには4000名の別働隊があたり、守備側は野戦に出た。上杉軍は約8倍の兵力を持ちながら守備側に挟撃され、大混乱の末に多くの武将を失うなど、守備側の激しい抵抗に遭って攻略できず、別働隊は最後まで兼続の本隊に合流できなかった。長谷堂城攻めでは兼続率いる上杉軍本隊が1万8000名という兵力を擁して力攻めを行ったが、志村光安、鮭延秀綱ら1千名の守備兵が頑強に抵抗し、上泉泰綱を討ち取られるなど多数の被害を出した(長谷堂城の戦い)。

その頃、美濃では関ヶ原本戦が行われていた。本戦で西軍が敗れた事が奥州に伝わると、上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。勢いに乗った最上軍と義光救援のために伊達政宗が援軍として派遣した留守政景軍が追撃してきて激戦になるが水原親憲、前田利益ら上杉勢の諸将の奮戦もあって米沢への撤退に成功した。この撤退戦の見事さは語り草となり、兼続は敵である義光や家康にも称賛され、旧日本陸軍参謀本部の日本戦史でも取り上げられている。

結果として、上杉軍の最上侵攻は山形の攻略に失敗し、反撃に出た最上軍に庄内地方を奪回され、また伊達軍の福島侵攻を誘発した。景勝・兼続主従は背後を脅かす最上・伊達を屈服させ、関東へ侵攻する構想を抱いていたが、関ヶ原本戦の決着が一日でついてしまったこともあり、実現できないまま降伏へ方針を転換することとなる。

江戸時代
慶長6年(1601年)7月、景勝とともに上洛して家康に謝罪する。家康から罪を赦された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許された。その後は徳川家に忠誠を誓い、慶長13年1月4日(1608年2月19日)に重光に改名する。

兼続は新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れた。米沢城下を流れる最上川上流には3キロメートルにわたって石が積まれ、川の氾濫を治めるために設けられたこの堤は「直江石堤(なおえせきてい)」と呼ばれている。新田開発に努め、表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに開発を進めた。また、町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いた。

上杉家と徳川家の融和を図り、本多正信とも交流があり慶長14年(1609年)には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど上杉家に大きく貢献している。また、正信の息子である本多政重が一時兼続の養子となっていた時期がある。政重とは養子縁組が解消されても親交が続いている。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても徳川方として参戦し、鴫野の戦いなどで武功を挙げた。

元和5年12月19日(1620年1月23日)、江戸鱗屋敷で病死した。享年60。




大河ドラマを語るに、NHKは斜陽だの、滅びの美学だのが入らない武士は武士道ではないと考えているのです
織田信長さんもマイケルジャクソンさんも50才で死去した



武士道スピリッツをのこしたいNHK。後世に笑われないような死に様をみせようというのです
「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物は、高坂昌信著とされる「甲陽軍鑑」です
武士道というのは、主君のために死ねる家来の総体というのが基本なんでしょうかね
公家の支配した平安時代から独立した文化なのですから、武士は戦で滅ぶのが美学という思想の結晶が切腹なんだと思います
死して桜の下に帰るような、せつなさこそが日本人の文明だといいたいのだそうです



確実に視聴率はとっているのです
敗戦からたちあがった高度経済国の日本だからこそ、学んでほしい涙というものがあるのです
毎度最終回をみるたびに私も涙があふれてくるのです



涙をかえばいいんですよ、広報の方はいったのです
歴史で散った者達が人情を残すならば何を残すのか
涙しか残せなかったという話なんですね
黄金の日日



黄金の日日 完全版 第七巻 (最終巻)(DVD)

1978年にNHK総合にて放送された市川染五郎(若き日の松本幸四郎)主演の大河ドラマ。戦国時代末期を舞台に、フィリピンとの交易を開いた豪商、呂宋助左衛門の半生を描いている。
<収録内容>
第四十五話:天変地異、第四十六話:五右衛門刑死、第四十七話:助左衛門追放、第四十八話:暗黒航路、第四十九話:激流、第五十話:関ヶ原、第五十一話:(最終回):堺炎上

最近チェックした作品です
若かりし日の名取裕子さんがでているやつです
堺炎上で「堺は我々の胸の中に生き残る」と叫んで火を放つシーンでおわります
一同はショックです。私の味方としてはもったいないということよりも「まだ燃やせるものがあるから涙はでる」というところです。精一杯いきてみて、初めてもやせるものがあることに気づくのです、そして涙を流せる。大河ドラマの広報なんかは昔から、涙で河をつくんだ、昔のような水飲める河つくるんやと豪語していたそうです
涙を大量に獲得するにも、最初に主人公がいきぬいたかを見切ることが重要なんだと思います
あるときは無用に怒って暴れて武士道をはずすときもあるでしょう。そういうのも含めてみつめていってラストを知るといいようです
他人の失敗も見れる観察眼はほしいなと常々思うのです
それにしても、黄金の日日はタイトルが朝焼けをイメージしたような明るい曲でした
一言に明るい夜明けといわせてもらいたいです
大河ドラマの中でも好きな曲の上位です
商人ルソン助ざえ門の物語です。売るために必死に頑張る姿はアフィリエイトで副収入を得たいという人に胸をうつ何かを教えてくれます
売る人がなくなったから堺を焼く、仁義として焼くのです。支配から逃れるために焼くというのが史実っぽくみえるのですが、ドラマでは商人として平和ができなかったくやしさを自由都市の維持というのにかけたくやしさが堺炎上につながっているのだと思います
涙流せるだけ生きる努力を猫なりにしてみるつもりです















by final-z | 2009-07-03 12:22 | 補給物資

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